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房一はいくらかつんぼの道平の耳に口を寄せて、大声で云つた。
注意深い読者はすでにお気づきだつたらうが、この二人の人物の間で若しどちらか相手の御機嫌をとらねばならない立場にあるとすれば、それはさしづめ房一である筈なのにどうも反対に相沢がさうであるやうに見える。彼が馬の所へ歩みよつたのも、房一の気に入りさうなことへ先潜りして行つたところがないでもない。ちよいちよい顔を出すをかしな傲慢さの他に、相沢には何か理由があつてのことか、それとも誰との場合にも相手に取入らうとする性癖があるのか、それはまだ吾々には不分明であるが、相沢が若し房一の気に入らうとつとめているとすれば、それは第一歩に於いて稍成功したと見るべきである。
「ふうん、潰れるだらうな」
やがて、鈍のろい、呆ぼけたやうな返事をしながら、房一の湯上りでよけい赤紅あかく輝く顔がのぞいた。彼はゆつくりと兵児帯をまきつけていた。だが、その様子とはおよそ反対な強きつい、きらりと光る目で、盛子のうしろに、半泣きになつた、取乱した青い顔で立つている徳次の妻、ときを見た。
万事の設備不完全なるは、一々数え立てるまでもないが、肝腎の風呂場とても今日のようなタイル張りや人造石の建築は見られない。どこの風呂場も板張りである。普通の銭湯とちがって温泉であるから、板の間がとかくにぬらぬらする。近来は千人風呂とかプールとか唱えて、競って浴槽を大きく作る傾きがあるが、むかしの浴槽はみな狭い。畢竟ひっきょう、浴客の少かったためでもあろうが、どこの浴槽も比較的に狭いので、多人数がこみ合った場合には頗る窮屈であった。
「化物が出た……」と、根津は笑った。「どんな物が出た。」
やつとこさ、さう云つた。まだ本当とは思へない、だが他には考へやうもない、そのたつた一つのことが、彼が医者としてあんなによく知り抜いている生理上の一現象が、又当然いつかは起りうると承知している筈のことが、今や目の前へぶら下げられた一包みの果物か何かのやうに、突然そこに持ち出され、いやでも彼の全注意を惹いているのであつた。いや、それどころではない、今そこに立つている盛子、白い割烹着に包まれ、すらりとした伸びやかな身体までが、その微笑している切れの長い眼つき、悪戯いたづらつぽさと羞はにかみとのまざり合つている様子だの、そのすべてが、何かしら微妙な、手で触れにくい、不思議な物として見えたのだつた。
真黒い顔の男が傍によつて訊いた。
一人だと何んて少ししか喰べないもんだらう、まるで小鳥の餌ほどだつたわ、と可笑をかしがりながら。――それに、後片づけだつてざぶざぶつと一二回やれば済んでしまふわ、と横目で膳の上を眺めながら。
実際盛子をせき立てることは何もなかつた。房一は上着だのズボンだのを脱ぎながら一人で慌てていた。何かしら騒ぎだつた。ネクタイがうまくとけなかつた。カラアが外れにくかつた。靴下から足が抜けなかつた。これらの物を畳の上にまき散らかせ、足にひつかけしながら、房一はそこらを高麗鼠こまねずみのやうにぐるぐる舞ひをした。それは図体が大きく不器用なだけに恐しく滑稽だつた。盛子は笑ひながら房一について歩き、その腕からワイシャツを巧みにはぎとり、散らかつた物を手早く始末した。
正文はそれきり黙つた。だが、練吉の妻はまだそこに片手をついたまゝ、何か答へを待つやうに老医師の方を向いていた。その眼には何か訴へるやうな非難するやうな色が見えた。正文はふと気づいた。
が、それは徳次であつた。