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    さう声に出してみた。そして犬の方をふりかへつた。犬は彼の方を信頼にみちた眼で見上げ、しなやかな尾を振つた。

    練吉は意外なことを耳にしたといふやうにちよつと房一を眺めたが、熱心に聞いていた。

    云はずと知れたことだ、といふやうに徳次はそのきよろりとした眼を上げて小莫迦こばかにした風に小谷を眺めた。大きい麦藁帽子を被つているので、小谷のやさしい顔立ちはひどく女らしく見えた。

    房一は自転車を降りて押しながら歩いた。しばらく行くと貯水池が見えて来た。あたりは松林で、その抜き立つた幹の間から水面が光つていた。向ふ側は半ば葉を落した雑木山だつた。いたる所が透いて、明あかるく、からりとした空気の中を時々つんと強い山の匂ひがした。

    「やあ」と、目で挨拶して何気なく行き過ぎようとすると、相沢は殆ど判らない位に軽く房一の腕にさはつて引きとめた。そこは拝殿からも馬場からも大分離れた場所だつた。あたりに人はいたが、顔見知りはなかつた。相沢はあなただけに、といふ風な一種秘密げな顔をしていた。房一は殆ど直覚的に、それが訴訟に関係したことだ、と悟つた。あの訴訟については、昨冬以来相沢は度々地方裁判所のある市に出かけ、鍵屋の方でも弁護士を立てて一二度審理があり、証人の申請があつたとかいふやうな話を、房一も聞いていたが、鍵屋の方では口を緘かんして語らないし、成行は他の者には少しも判らなかつた。その噂の最初がやかましいものだつたにかゝはらず、何にしろ事件はこの土地からはるか離れた所で遅々として進んでいるのか停滞しているのかわからない位であつたから、いつとなく遠耳になつていた。しかし、相沢を見た瞬間それを思ひ出さずにはいられなかつたのである。

    今泉は面喰つてこれも徳次の眼の中をのぞきこんだ。二人の間には恐しく判りにくいものが突然はさまつたやうに思はれた。

    房一は又重たげな恰好で坂路を登つて行つた。下を見ると、心持阿弥陀あみだに被つた練吉のソフト帽が、もう小さく桑畑の間を走つているところだつた。彼は、練吉の気弱さうでもあり、又疳かんの強さうにも見える眉のあたりの色を、今ごろになつて急にはつきり思ひ出した。

    と生返事をしながら、大工の口にした高間医院といふ名前が耳新しく響いたので、房一は思はず微笑した。

    房一は怒つたやうな嘲あざけるやうな調子であつた。その顔は何故か黒ずんで見えた。そして、目がぎらついていた。

    彼はもう何度も家の内外を行つたり来たりして、「高間医院」のでき上り工合を綿密に眺め歩いていた。新開業の胸のふくらむやうな思ひが、とりとめもない快感が次々と起きて片時もぢつとして居れない風だつた。

    房一は傷を調べにかゝつた。後頭部にもあつた。身体にへばりついたシャツをはぎとると、背部に最もひどい傷があつた、それは紛まがふところのない刃物による刺傷だつた。新しい血がはぎとられたシャツの下から、瞬またゝく間にふき出し、滴したゝり落ちた。

    と、房一を誘つていた。

    「あの婆さん(家主のこと)自分の掘った温泉だから、意地をはって、ガタガタふるえながら、はいってる。絶え間なくタオルで身体をこすりながら、はいってる」

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