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「水神淵を知つとんなさるだらう」
徳次も笑顔になつていた。だが、それは甚だ不器用なもので、絶えず紅らんだり力んだりしながら、眩しげに房一を見たかと思ふと、又当惑したやうな顔になるのであつた。
「どうしても学問をやるというて聞きませんだつたが。――それで神戸高商を出ましてな住友へ入つて結構やつとりましたが、三年前にぽつくり行つてしまひましたよ。病気ですか?結核性脳膜炎とか云ひましてな、十日ぐらいで、あつさりしたもんでした」
半之丞は誰に聞いて見ても、極ごく人の好いい男だった上に腕も相当にあったと言うことです。けれども半之丞に関する話はどれも多少可笑おかしいところを見ると、あるいはあらゆる大男並なみに総身そうみに智慧ちえが廻り兼ねと言う趣おもむきがあったのかも知れません。ちょっと本筋へはいる前にその一例を挙げておきましょう。わたしの宿の主人の話によれば、いつか凩こがらしの烈はげしい午後にこの温泉町を五十戸こばかり焼いた地方的大火のあった時のことです。半之丞はちょうど一里ばかり離れた「か」の字村のある家へ建前たてまえか何かに行っていました。が、この町が火事だと聞くが早いか、尻を端折はしょる間まも惜しいように「お」の字街道かいどうへ飛び出したそうです。するとある農家の前に栗毛くりげの馬が一匹繋つないである。それを見た半之丞は後あとで断ことわれば好いいとでも思ったのでしょう。いきなりその馬に跨またがって遮二無二しゃにむに街道を走り出しました。そこまでは勇ましかったのに違いありません。しかし馬は走り出したと思うと、たちまち麦畑へ飛びこみました。それから麦畑をぐるぐる廻る、鍵かぎの手に大根畑だいこんばたけを走り抜ける、蜜柑山みかんやまをまっ直すぐに駈かけ下おりる、――とうとうしまいには芋いもの穴の中へ大男の半之丞を振り落したまま、どこかへ行ってしまいました。こう言う災難に遇あったのですから、勿論火事などには間まに合いません。のみならず半之丞は傷だらけになり、這はうようにこの町へ帰って来ました。何なんでも後あとで聞いて見れば、それは誰も手のつけられぬ盲馬めくらうまだったと言うことです。
さう云ふ房一の前に立つて、徳次は子供が手いたづらをするのとそつくりな様子で傍にひよろ長く生えていた草を片手でむしりとり、口にくはへた。さつきはじめて傍へ近よつたときのやうに、彼の顔は又紅らみどこか力んでいる表情を浮かべながら、口のあたりをもごもごさせた。
と云つた。
と、盛子は声をかけて、その方へ向いて近づきながら、だが、そこに房一とは違ふ男の顔がうす暗がりの中で何だかためらひ気味に、中へ入りもしないで口をもごもごさせて突立つているのを見た。が、その顔は急に突拍子もない大きな声を出した。
日は高く上つて、噎むせるやうな温かい空気が、時々、風の工合で河原の方からやつて来た。徳次も切り上げて来た。三箇の魚籠びくを中にして、頭を並べて獲物を見せ合つた。
男の顔は泥と血で汚れ、かすり傷が一面についていた。顎の所にかなりひどい裂傷があり、血糊が固くこびりついていた。どこか打撲傷をうけたらしく、一見したところ気息奄々きそくえんえんとしていたが、房一が手拭をとり除いたときに、男はかすかに眼を開けて房一の顔を見た。
「はあ、見て参ります」
「さうさう、先だつてはお加減がわるかつたさうですが――」
「何分ごらんの通りの未熟者でして――」
人間の頭の廻転などというものは、その人の性質に応じて方法を講じることができるものだ。絶対のものではないし、神秘的なものでもない。苦しかったら、まず、方法を考えることだ。精神などといって、非物質的な張本にまつりあげるのは、精神を増長させるばかりで、物質的に加工しうる限度をひろげるように工夫すると、相当に細工のきくシロモノだということが分ってくる。